2006年 04月 07日
上海・杭州等旅行記 2006年3月 [4日目] |
[旅行日程メモ]
(はじめに)
(1日目旅行記) 2006(平成18)年3月16日
(2日目旅行記) 2006(平成18)年3月17日
(3日目旅行記) 2006(平成18)年3月18日
(4日目旅行記) 2006(平成18)年3月19日 この記事
(5日目旅行記) 2006(平成18)年3月20日
(総評)
2006年3月19日(日)
本文に出てくる写真はココをクリック!!
4日目の旅行記についての写真をまとめたページが別ウインドウで開きます。
この写真ページを参照しながら読むことをオススメします!
1 ホテル(揚州、西園大酒店) 起床 朝食
(1)6:00起床 6:30~朝食
(2)7:35バス出発
バス移動(揚州から蘇州へ)(約3時間、7:35~10:30)
9:05 トイレ休憩
2 蘇州観光その1ー留園見学(10:40~11:40)
(1) 中国の四大名園は、①北京の頤和園、②承徳の避暑山荘、③拙政園、④留園の4つ。また蘇州の四大名園は、①獅子林、②拙政園、③滄浪亭、④留園の4つ。したがって留園は、この両者にランクインされている名園。留園が造営されたのは明代だが、清代に改築されたため、清代の様式になっているとのこと。
(2) また留園は皇帝や国王がつくったものではなく、高級官僚個人の別荘(写真4-①、②)とのことだが、その詳しい説明は聞いていないのでよくわからない。そう言われて思うのは、やはり北京の頤和園と比べると規模が全然違うということか・・・?
なおガイド本によれば、拙政園を造営したのも同じく明代の高級官僚だった王献臣で、俗説では皇帝からのほうびと地方の官吏からの賄賂によって造ったので、拙政園と呼ばれたともいわれるとのこと。多分留園も同じようなものなのだろう。
(3) 2003年11月の北京ツアーで見学した頤和園と同じように、留園でも花窓(写真4-③)と呼ばれる透かし窓を通して美しい庭園が見えるように、楼閣や回廊を巧みに配している。またこの花窓の形がすべて異なるため、どこから見てもさまざまに移り変わる景色を見ることができるというのが最大の特徴。この花窓を通して庭を見学しながら写真を撮っていると、北京で1人ツアーからはぐれてしまった「事件」を思い出してしまう。今回も人がいっぱいいる狭い建物の中をぐるぐる回っていると、よほど用心しなければ、はぐれてしまいそうに・・・。
(4) 石
この留園の庭にたくさん置かれている奇妙な形をしたさまざま飾り石(写真4-④⑤⑥)は、蘇州特産のものらしい。軽石のような感じだが、そうでないとのこと。しかし私にはそれ以上の説明はムリ・・・。
(5)足裏健康法・・・
明代の高級官僚も健康には留意していたとみえ、庭の一部に敷きつめているのは、いわば足裏を刺激して健康を維持するための石。どこかの庭園にも、このもっと立派なものがあったなと思いつつ、とりあえず写真だけ・・・(写真4-⑦)。
バス移動(11:40~11:50)
3 蘇州観光その2ー寒山寺見学(11:50~12:40)
(1)運河、橋
蘇州も水郷のまち。したがって、バスを停めた駐車場から寒山寺までしばらく歩いていくことになるが、その途中には美しい運河や橋が・・・(写真4-⑧⑨)。
(2) 寒山寺は、唐代の詩人張継が詠った「楓橋夜泊」で有名な、6世紀初頭に創建された臨済宗のお寺で、唐代の高僧・「寒山」にちなんで寒山寺と呼ばれるようになったとのこと。
詩に登場する鐘は、日本へ布教の旅に出た無二の親友「拾得」(じっとく)の身を案じてつくられたもので、今あるものは、清代に復元されたものとのこと。
まずはツアー客が集合写真を撮る寒山寺の入口でハイポーズ・・・(写真4-⑩⑪)。
(3)拾得(写真4-⑫⑬⑭)
写真4-⑬の金像は遠くから見ると、まるでマイクを持ってカラオケを楽しんでいるような姿。左側が寒山さんで、右側が拾得さんとのこと。私は拾得さんの名前は今回はじめて知ったが、もっと勉強しなければ・・・。
(4)普明寳塔
寒山寺には見学すべきものが多いが、とりあえず普明寳塔の写真を・・・(写真4-⑮⑯)。
(5)詩(写真4-⑰)
この写真の詩が張継が詠った「楓橋夜泊」の詩。念のために、その詩を以下記しておこう。
月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺
夜半の鐘声客船に到る
(6)鐘(写真4-⑱)
有名な寒山寺の鐘は、1回(5元)つくと、10年長生きすると言われているが、実際についている人はなぜかいなかった・・・?大晦日には、この寒山寺での除夜の鐘を聞くために多くの日本人が観光に訪れるらしい。袁さんの話によると、寒山寺の住職は時計を全く見ないまま、住職が鐘をつき、108回の鐘をつき終わるとちょうど元旦の0時を迎えることになるとのこと。これぞ神ワザ・・・?
バス移動(レストランへ)(12:40~12:55)
4 レストランで昼食(1:00~1:40)
バス移動(蘇州から周庄へ、約1時間、1:40~2:35)
5 水郷のまち周庄見学(2:40~3:25)
(1) 烏鎮は聞いたことがあっても、周圧という名前は私は1度も聞いたことがなかったもの(写真4-⑲⑳)。ここは直轄地である上海市と江蘇省の境にある900年の歴史を誇る水郷のまちで、まちの1部が有料のテーマパークとされているもの。まち全体は烏鎮より大きいが、水郷観光のエリアは烏鎮より少し小さい感じ。周庄は地主の別荘地として明・清の時代に発展したが、それは気候が温暖な水郷地帯であったため。
(2) 運河には小型の美しいアーチ状の石橋が架けられており、中でも富安橋と雙橋は美古橋としてよく知られており、そこが写真撮影の名所とのこと。かけ足状態で移動しているため、どれが、何という橋なのかじっくり味わうこともできないまま、とにかく美しいところで次々と写真撮影を・・・(写真4-21、22、23)。
(3)京劇芝居
定められたコースからは見えなかったが、少し脇道にそれるとちょっとした舞台があり、そこで京劇のようなものを上演していたため、1分ほどそれを覗いて写真だけを・・・(写真4-24)。
バス移動(周庄から上海へ、約1時間30分、3:30~5:00)
<離団届けの提出・・・>
(1) 上海の見学は今日の夕食後しか日程がないから、2日目の夜のように、郊外のホテルに入ってしまうと再度市内の中心部へ出かけてくるのに大きなロスが生じることになる。そこでバスの中で私が袁さんに確認したのは、①ホテル、②上海雑技団のショー、③夕食、④外灘(バンド)、の位置関係。今夜宿泊する上海逸和龍柏飯店ホテルは国内線専用の旧虹橋空港の近くだから上海の西端に位置している。これに対して外灘(バンド)は当然東端。そしてショーをやる劇場は市内の繁華街にあり、夕食は外灘(バンド)の近くにある有名な庭園である豫園の近くとのこと。
(2) そこで、上海雑技団のショー見学をしない私たちは、夕食後2人だけで別行動をとるので、バスの中のトランクをホテルのフロントに預けて、部屋のチェックインをしておいてもらえないかと袁さんに申し出たところ、それは「離団届け」を出してくれればオーケーとのこと。私もはじめての経験だったが、「離団届け」とは離団後の行動の責任をすべて自分でとるのが前提だが、それにも①○時から○時まで団体から離れる、②何時以降帰国まですべて団体から離れるという2つのパターンがあるとのこと。それを聞いて私はなるほどそういう便利な制度があるのかと感心。こんな制度があるのなら、参加する時からここまでは参加し、ここからは離団して自由行動をとるということも認めてくれるのかも・・・?もっとも、ツアー参加の段階からそんな注文をつけることができるのかどうかは、もっと詳しく確認しなければわからないが・・・。
(3) そこで私たちは夕食終了後、11時まで離団し別行動をとること、そしてその間の責任は自分たちがとることの書類にサインをし、いざ離団の準備を・・・。
6 お茶の試飲(5:00~5:40)
(1) 本日4日目のオプションは、7時30分から始まる上海雑技団のショー観賞。私は2003年11月の北京ツアーの時に既にこれを観ているし、上海のまちの見学は今日の夕食後しか時間がないので、雑技団のショー見学はノーサンキュー。それでも午前中のバス移動の中の袁さんの勧誘よろしきもあって、27名中15名がオプション参加を表明していた。しかしバスが上海市内へ入ったのは、既に5時にになろうとする時間。これではオプション参加者の外灘(バンド)の見学は一体どうなるのだろうかと心配するとともに、7時30分からのショー見学のために外灘(バンド)見学は短時間で終わってしまうのではと不安になっていた。そんな状況下で袁さんから上海へのバス移動中にアナウンスされたのは、上海市内に到着すればまずお茶を飲みに行くとのこと。6時から夕食なのにその直前にお茶はないだろう、そんなものはやめにして上海のまちの見学をさせてくれと思い、「外灘(バンド)の見学はちゃんとできるのか?」と質問すると、「大丈夫です」との答え。しかし、さて・・・?
(2) バスの中から高層ビルが林立する上海のまちなみを見学し、降りたところからは、徒歩でお茶の店へ行くとのこと。バスを降りてゾロゾロと袁さんの後について歩いていくのだが、その場所は豫園の近くにあるらしい。既にお互い仲良くなっているツアー参加者からは、「お茶なんかいらないのに・・・」「どこまで歩いていくの・・・」という不満の声が・・・。これに対して袁さんは、早く客をお茶の店に案内しなければと焦っていることがミエミエで、有名な観光名所である豫園の門(写真4-25)の前を通っても何の説明もなく、先を急いで歩くだけ。私たちを含む何人かは豫園の前で写真を撮ったりしていたが、こんな袁さんの案内に私の不満もかなり沸騰中・・・。
(3) お茶の実演はウーロン茶、ジャスミン茶、龍井(ロンジン)茶など4種類。説明してくれるお嬢さんもかわいいし、お茶もおいしいのだが、時間を気にしながらのお茶は全然楽しくないもの(写真4-26)。したがって、その後のお茶の販売についても全然買う気にならず、1時間弱のお茶が終わり、また歩いてバスの地点まで・・・。ところがここで、駐車場の塀が既に閉まっていたらしく、何と袁さんは塀を乗り越えていき、私たちも同じように塀を乗り越えるようにと指示。私はいいが、年配のおじさん、おばさんたちも1人ずつ塀を乗り越える羽目に。そりゃないだろう・・・。
7 バス移動(夕食のレストランへ)(5:50~6:00)
<トラブル発生>
バスに乗り、夕食のレストランへ向かったが、バスの中で私は、①オプション不参加者の夕食後の外灘(バンド)見学はどうなるのか、②7時30分からのオプション参加者の外灘(バンド)見学はどうなるのかを質問したが、袁さんは「大丈夫」と言うばかり。お茶を飲んでいる時のみんなの不平・不満は、①時間がないのだからお茶なんか行かないで、上海のまちを見学したい、②7時30分からの雑技団はあくまでオプションだから、そのオプションに参加するため外灘(バンド)見学ができないのなら、オプション参加はやめてもいい、というもの。そういう大勢の声を前提として、私も少し大きな声で、7時30分からのオプションを優先させるのはおかしいと真正面から苦情を述べたが・・・。
8 レストランで夕食(上海料理)(6:05~6:50)
今回のツアーの昼食、夕食は全体的にあまりいいものではなかったが、さすがに上海のレストランの夕食はおいしいもの(写真4-27)。袁さんに対する不満がいっぱい溜まっていたが、夕食は和気あいあいの雰囲気で大満足。
バス移動(レストランから雑技団会場へ)(7:00~7:20)
<大トラブル発生!>
(1) おいしい夕食をかき込むようにして食べた後、再びバス乗ったのが6時50分。私たちはここで別れて2人で別行動をとってもいいのだが、雑技団のショー不参加者はこれから外灘(バンド)見学に行くということなので、そこまではみんなと一緒にと思ってバスに乗った・・・。
(2) この時私が聞いていたのは雑技団ショー参加者と非参加者を2台のバスに分けて、1台は雑技団ショーへ、1台は外灘(バンド)見学へ行くということだったが、実際はそうではなかった。私たちB班の車はB班全員を乗せてそのまま雑技団ショーの会場近くに行き、7時20分にそこで停車し、雑技団ショー見学者は降りてショー見学へ、そして当然袁さんはその引率のためにバスを出て行った。あれ、これではショーの座席の案内が終わるまで私たちはバスの中で無駄な時間を10分、15分と過ごすだけだと気がついたが。さらに雑技団ショー参加者をバスで会場まで送り届け、またバスで外灘に行くまでの時間約30分を無駄にしただけだと気づいたが、もう後の祭・・・。袁さんがバスに帰ってきたら文句をつけようと思っていたら、それより先にT氏が大爆発・・・。
(3) 袁さんが息せき切って帰ってきたのは7時35分。その袁さんの顔を見るなり大声で怒鳴りつけたのはT氏。その論旨は、①何にも説明しないまま我々をバスの中に放り出すとは何ゴトかということと、②2日目のホテルでの料金未精算問題で一言も謝らないのは何ゴトかということの2点。言い方は激しいが、その主張している内容はごく当然のことばかり。特に①については、まず私が文句をつけよう思っていたことだった。ここまで怒鳴られれば袁さんも反論することができず、とにかくバスを出発させることに・・・。
バス移動(雑技団会場から外灘見学へ)(7:35~7:45)
約5分間の大トラブル終了後、バスが外灘(バンド)に着いたのは7時40分。バスを降りて写真撮影の後、袁さんは現地まで私たちを案内し、何時まで見学しますかという質問。黄浦江から吹いてくる風がかなり強く、少し寒くなってきたこともあり、参加者は15分くらいでということになったため、8時5分まで一緒に行動して写真撮影などを・・・。
9 外灘、上海夜景見学(7:45~8:05)
(1) 写真が美しくコンパクトな概説がうまくまされている小学館の『週刊 中国悠遊紀行』全50冊は、私にとってすごく重要な情報源。そのNO4が上海だが、その18頁には「個性豊かな繁華街 名街」の紹介があったため、私はそのコピーを持参していた。
(2) 上海の租界が始まったのは、阿片戦争に破れた清国が1843年に南京条約を締結させられ、上海など5港の開港を迫られたためだ。イギリスによる上海租界が始まったのは1845年だが、続いて1848年にはアメリカが、1849年にはフランスが租界を設けることに。そして1863年には英米租界が合併して共同租界となり、一部には通称「日本租界」も設けられた。ちなみに、長州藩の勤王の志士である高杉晋作が上海を訪れたのは1862年で、ペリーが日本へ来航した9年後のことだ。
(3) このため大きく蛇行する黄浦江を挟んだ東側の新開発地域である浦東(プートン)地区には、高さ463mの東方明珠電視塔をはじめとして上海国際会議場、金茂大廈などの超近代的な高層ビルが立ち並んでいる(写真4-28、29)。
他方、西側には、上海摩天楼と呼ばれたイギリス領事館、匯豊銀行、東方匯理銀行などのおなじみの高層ビルが立ち並んでいる(写真4-30、31)。これぞ上海の夜景として世界中に知れ渡っている実にすばらしい景色が目の前いっぱいに広がっていた。
10 12名と別れて自由行動(8:05~10:15)
(1)南京東路を散策
外灘の見学を終えた後、その反対側にある市役所などを見学し、その後は南京東路の歩行街をブラブラと歩きながら、その巨大さを満喫(写真4-32)。この歩行街はもともと車の通る道路を1999年に歩行街に改めたとのこと。大阪の道頓堀通りを約5倍ほどに広げ、その中を小型の電気バスが走っているという雰囲気で、河南中路駅から人民公園駅まで1駅をブラブラと歩いて約15分というところ。外灘見学で風の冷たさを感じた私は、途中たくさんの店でバーゲンセールをやっていたため、1軒の店に立ち寄り、59元(約1200円)でちょっとカッコいい防寒コートを購入。なお、人民公園駅の公園はどんな大きさなのかと思って進んでいくと、これは意外に小さいものだったのでビックリ。それとは逆に、新しくできたデパートの巨大さは、とても日本では想像もできないほどのもの。
(2)地下鉄 人民公園駅にて次の方針決定
人民公園駅までたどり着いたところ(写真4-33、34)で、これからどこへ行こうかと迷ったが、1度上海の地下鉄に乗ってみたいと考えて、人民公園駅で地下鉄乗り場へ。地下鉄料金は3元。売店でビールを買い、地下鉄1号線に乗って南へ1駅黄陂南路駅へ。切符は日本と違ってすごく立派なものだったが、出口で回収される形式のもの。また夜の9時過ぎだが、階段を上り下りする乗客の足の速さは大阪と同じ・・・。私がここへ向かったのは、2001年にオープンした上海新天地の中にある中国共産党の「一大会址」を見てみようと思ったため。
(3)共産党趾の見学
黄陂南路駅に到着すると「一大会址」は2号出口と書いてあった。しかし、そこを出たものの、それらしきものは全く見えず、「一大会址」にたどり着くまでにかなりの苦労を。だって私の相棒の中国人留学生自身が、1921年に中国共産党の第1回党大会が開かれた会場がここにあるということ自体を知らないのだから、それもやむを得ないもの。ところどころに立っている「公安」に聞きながら、約10分歩いてやっとたどり着いたのが一大会址(写真4-35)。ここは2006年2月27日から3月24日まで工事中のため立入禁止となっていたのは残念(写真4-36)。しかしあと数日すればその工事が完了し、中国共産党の第1回大会の記念の資料が大々的に公開されるのでは・・・?
(4)足ツボマッサージは中止
共産党趾の近くには立派なレストランがたくさんあり、足ツボマッサージの店もあったので入ろうとしたが、料金は200元。日本の感覚で考えれば高いわけではないが、50元、60元で慣れた感覚ではべらぼうに高いため、ホテルにもあるだろうと考えて中止。
11 タクシーでホテルへ(上海逸和龍柏飯店)(10:15~10:30)
(1) ホテルへの帰路はタクシーだが、高速道路を走って約15分。日本なら1万円近くかかりそうだが、中国では基本料金が10元だから、かなりアップしても結果的には43元(約650円)とバカ安・・・。
(2) このホテルには立派なフィットネス施設があることが、タクシーの窓から見えた。そこで足ツボマッサージを楽しみに、このホテルで足ツボマッサージの値段を聞くと、何とここも280元とのこと。それを聞いてえらくケチになっている私はもういいワと中止。やはり上海の物価は異常であることをこんなところで実感!
(3) 「離団届け」を提出したため、袁さんにトランクをフロントに預けておいてくれるよう頼んでいたところ、そのトランクは無事に保管されていた。ところが、同時に依頼していたバスの中に手荷物として持ち込んでいたリュックがない。「こりゃまた何かの手違いだ、すぐに連絡しなければ・・・」と思っていると、ちょうどいいタイミングで袁さんと出会うことに。彼の説明は「・・・」だったが・・・。
12 就寝(11:30)
(はじめに)
(1日目旅行記) 2006(平成18)年3月16日
(2日目旅行記) 2006(平成18)年3月17日
(3日目旅行記) 2006(平成18)年3月18日
(4日目旅行記) 2006(平成18)年3月19日 この記事
(5日目旅行記) 2006(平成18)年3月20日
(総評)
2006年3月19日(日)
本文に出てくる写真はココをクリック!!
4日目の旅行記についての写真をまとめたページが別ウインドウで開きます。
この写真ページを参照しながら読むことをオススメします!
1 ホテル(揚州、西園大酒店) 起床 朝食
(1)6:00起床 6:30~朝食
(2)7:35バス出発
バス移動(揚州から蘇州へ)(約3時間、7:35~10:30)
9:05 トイレ休憩
2 蘇州観光その1ー留園見学(10:40~11:40)
(1) 中国の四大名園は、①北京の頤和園、②承徳の避暑山荘、③拙政園、④留園の4つ。また蘇州の四大名園は、①獅子林、②拙政園、③滄浪亭、④留園の4つ。したがって留園は、この両者にランクインされている名園。留園が造営されたのは明代だが、清代に改築されたため、清代の様式になっているとのこと。
(2) また留園は皇帝や国王がつくったものではなく、高級官僚個人の別荘(写真4-①、②)とのことだが、その詳しい説明は聞いていないのでよくわからない。そう言われて思うのは、やはり北京の頤和園と比べると規模が全然違うということか・・・?
なおガイド本によれば、拙政園を造営したのも同じく明代の高級官僚だった王献臣で、俗説では皇帝からのほうびと地方の官吏からの賄賂によって造ったので、拙政園と呼ばれたともいわれるとのこと。多分留園も同じようなものなのだろう。
(3) 2003年11月の北京ツアーで見学した頤和園と同じように、留園でも花窓(写真4-③)と呼ばれる透かし窓を通して美しい庭園が見えるように、楼閣や回廊を巧みに配している。またこの花窓の形がすべて異なるため、どこから見てもさまざまに移り変わる景色を見ることができるというのが最大の特徴。この花窓を通して庭を見学しながら写真を撮っていると、北京で1人ツアーからはぐれてしまった「事件」を思い出してしまう。今回も人がいっぱいいる狭い建物の中をぐるぐる回っていると、よほど用心しなければ、はぐれてしまいそうに・・・。
(4) 石
この留園の庭にたくさん置かれている奇妙な形をしたさまざま飾り石(写真4-④⑤⑥)は、蘇州特産のものらしい。軽石のような感じだが、そうでないとのこと。しかし私にはそれ以上の説明はムリ・・・。
(5)足裏健康法・・・
明代の高級官僚も健康には留意していたとみえ、庭の一部に敷きつめているのは、いわば足裏を刺激して健康を維持するための石。どこかの庭園にも、このもっと立派なものがあったなと思いつつ、とりあえず写真だけ・・・(写真4-⑦)。
バス移動(11:40~11:50)
3 蘇州観光その2ー寒山寺見学(11:50~12:40)
(1)運河、橋
蘇州も水郷のまち。したがって、バスを停めた駐車場から寒山寺までしばらく歩いていくことになるが、その途中には美しい運河や橋が・・・(写真4-⑧⑨)。
(2) 寒山寺は、唐代の詩人張継が詠った「楓橋夜泊」で有名な、6世紀初頭に創建された臨済宗のお寺で、唐代の高僧・「寒山」にちなんで寒山寺と呼ばれるようになったとのこと。
詩に登場する鐘は、日本へ布教の旅に出た無二の親友「拾得」(じっとく)の身を案じてつくられたもので、今あるものは、清代に復元されたものとのこと。
まずはツアー客が集合写真を撮る寒山寺の入口でハイポーズ・・・(写真4-⑩⑪)。
(3)拾得(写真4-⑫⑬⑭)
写真4-⑬の金像は遠くから見ると、まるでマイクを持ってカラオケを楽しんでいるような姿。左側が寒山さんで、右側が拾得さんとのこと。私は拾得さんの名前は今回はじめて知ったが、もっと勉強しなければ・・・。
(4)普明寳塔
寒山寺には見学すべきものが多いが、とりあえず普明寳塔の写真を・・・(写真4-⑮⑯)。
(5)詩(写真4-⑰)
この写真の詩が張継が詠った「楓橋夜泊」の詩。念のために、その詩を以下記しておこう。
月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺
夜半の鐘声客船に到る
(6)鐘(写真4-⑱)
有名な寒山寺の鐘は、1回(5元)つくと、10年長生きすると言われているが、実際についている人はなぜかいなかった・・・?大晦日には、この寒山寺での除夜の鐘を聞くために多くの日本人が観光に訪れるらしい。袁さんの話によると、寒山寺の住職は時計を全く見ないまま、住職が鐘をつき、108回の鐘をつき終わるとちょうど元旦の0時を迎えることになるとのこと。これぞ神ワザ・・・?
バス移動(レストランへ)(12:40~12:55)
4 レストランで昼食(1:00~1:40)
バス移動(蘇州から周庄へ、約1時間、1:40~2:35)
5 水郷のまち周庄見学(2:40~3:25)
(1) 烏鎮は聞いたことがあっても、周圧という名前は私は1度も聞いたことがなかったもの(写真4-⑲⑳)。ここは直轄地である上海市と江蘇省の境にある900年の歴史を誇る水郷のまちで、まちの1部が有料のテーマパークとされているもの。まち全体は烏鎮より大きいが、水郷観光のエリアは烏鎮より少し小さい感じ。周庄は地主の別荘地として明・清の時代に発展したが、それは気候が温暖な水郷地帯であったため。
(2) 運河には小型の美しいアーチ状の石橋が架けられており、中でも富安橋と雙橋は美古橋としてよく知られており、そこが写真撮影の名所とのこと。かけ足状態で移動しているため、どれが、何という橋なのかじっくり味わうこともできないまま、とにかく美しいところで次々と写真撮影を・・・(写真4-21、22、23)。
(3)京劇芝居
定められたコースからは見えなかったが、少し脇道にそれるとちょっとした舞台があり、そこで京劇のようなものを上演していたため、1分ほどそれを覗いて写真だけを・・・(写真4-24)。
バス移動(周庄から上海へ、約1時間30分、3:30~5:00)
<離団届けの提出・・・>
(1) 上海の見学は今日の夕食後しか日程がないから、2日目の夜のように、郊外のホテルに入ってしまうと再度市内の中心部へ出かけてくるのに大きなロスが生じることになる。そこでバスの中で私が袁さんに確認したのは、①ホテル、②上海雑技団のショー、③夕食、④外灘(バンド)、の位置関係。今夜宿泊する上海逸和龍柏飯店ホテルは国内線専用の旧虹橋空港の近くだから上海の西端に位置している。これに対して外灘(バンド)は当然東端。そしてショーをやる劇場は市内の繁華街にあり、夕食は外灘(バンド)の近くにある有名な庭園である豫園の近くとのこと。
(2) そこで、上海雑技団のショー見学をしない私たちは、夕食後2人だけで別行動をとるので、バスの中のトランクをホテルのフロントに預けて、部屋のチェックインをしておいてもらえないかと袁さんに申し出たところ、それは「離団届け」を出してくれればオーケーとのこと。私もはじめての経験だったが、「離団届け」とは離団後の行動の責任をすべて自分でとるのが前提だが、それにも①○時から○時まで団体から離れる、②何時以降帰国まですべて団体から離れるという2つのパターンがあるとのこと。それを聞いて私はなるほどそういう便利な制度があるのかと感心。こんな制度があるのなら、参加する時からここまでは参加し、ここからは離団して自由行動をとるということも認めてくれるのかも・・・?もっとも、ツアー参加の段階からそんな注文をつけることができるのかどうかは、もっと詳しく確認しなければわからないが・・・。
(3) そこで私たちは夕食終了後、11時まで離団し別行動をとること、そしてその間の責任は自分たちがとることの書類にサインをし、いざ離団の準備を・・・。
6 お茶の試飲(5:00~5:40)
(1) 本日4日目のオプションは、7時30分から始まる上海雑技団のショー観賞。私は2003年11月の北京ツアーの時に既にこれを観ているし、上海のまちの見学は今日の夕食後しか時間がないので、雑技団のショー見学はノーサンキュー。それでも午前中のバス移動の中の袁さんの勧誘よろしきもあって、27名中15名がオプション参加を表明していた。しかしバスが上海市内へ入ったのは、既に5時にになろうとする時間。これではオプション参加者の外灘(バンド)の見学は一体どうなるのだろうかと心配するとともに、7時30分からのショー見学のために外灘(バンド)見学は短時間で終わってしまうのではと不安になっていた。そんな状況下で袁さんから上海へのバス移動中にアナウンスされたのは、上海市内に到着すればまずお茶を飲みに行くとのこと。6時から夕食なのにその直前にお茶はないだろう、そんなものはやめにして上海のまちの見学をさせてくれと思い、「外灘(バンド)の見学はちゃんとできるのか?」と質問すると、「大丈夫です」との答え。しかし、さて・・・?
(2) バスの中から高層ビルが林立する上海のまちなみを見学し、降りたところからは、徒歩でお茶の店へ行くとのこと。バスを降りてゾロゾロと袁さんの後について歩いていくのだが、その場所は豫園の近くにあるらしい。既にお互い仲良くなっているツアー参加者からは、「お茶なんかいらないのに・・・」「どこまで歩いていくの・・・」という不満の声が・・・。これに対して袁さんは、早く客をお茶の店に案内しなければと焦っていることがミエミエで、有名な観光名所である豫園の門(写真4-25)の前を通っても何の説明もなく、先を急いで歩くだけ。私たちを含む何人かは豫園の前で写真を撮ったりしていたが、こんな袁さんの案内に私の不満もかなり沸騰中・・・。
(3) お茶の実演はウーロン茶、ジャスミン茶、龍井(ロンジン)茶など4種類。説明してくれるお嬢さんもかわいいし、お茶もおいしいのだが、時間を気にしながらのお茶は全然楽しくないもの(写真4-26)。したがって、その後のお茶の販売についても全然買う気にならず、1時間弱のお茶が終わり、また歩いてバスの地点まで・・・。ところがここで、駐車場の塀が既に閉まっていたらしく、何と袁さんは塀を乗り越えていき、私たちも同じように塀を乗り越えるようにと指示。私はいいが、年配のおじさん、おばさんたちも1人ずつ塀を乗り越える羽目に。そりゃないだろう・・・。
7 バス移動(夕食のレストランへ)(5:50~6:00)
<トラブル発生>
バスに乗り、夕食のレストランへ向かったが、バスの中で私は、①オプション不参加者の夕食後の外灘(バンド)見学はどうなるのか、②7時30分からのオプション参加者の外灘(バンド)見学はどうなるのかを質問したが、袁さんは「大丈夫」と言うばかり。お茶を飲んでいる時のみんなの不平・不満は、①時間がないのだからお茶なんか行かないで、上海のまちを見学したい、②7時30分からの雑技団はあくまでオプションだから、そのオプションに参加するため外灘(バンド)見学ができないのなら、オプション参加はやめてもいい、というもの。そういう大勢の声を前提として、私も少し大きな声で、7時30分からのオプションを優先させるのはおかしいと真正面から苦情を述べたが・・・。
8 レストランで夕食(上海料理)(6:05~6:50)
今回のツアーの昼食、夕食は全体的にあまりいいものではなかったが、さすがに上海のレストランの夕食はおいしいもの(写真4-27)。袁さんに対する不満がいっぱい溜まっていたが、夕食は和気あいあいの雰囲気で大満足。
バス移動(レストランから雑技団会場へ)(7:00~7:20)
<大トラブル発生!>
(1) おいしい夕食をかき込むようにして食べた後、再びバス乗ったのが6時50分。私たちはここで別れて2人で別行動をとってもいいのだが、雑技団のショー不参加者はこれから外灘(バンド)見学に行くということなので、そこまではみんなと一緒にと思ってバスに乗った・・・。
(2) この時私が聞いていたのは雑技団ショー参加者と非参加者を2台のバスに分けて、1台は雑技団ショーへ、1台は外灘(バンド)見学へ行くということだったが、実際はそうではなかった。私たちB班の車はB班全員を乗せてそのまま雑技団ショーの会場近くに行き、7時20分にそこで停車し、雑技団ショー見学者は降りてショー見学へ、そして当然袁さんはその引率のためにバスを出て行った。あれ、これではショーの座席の案内が終わるまで私たちはバスの中で無駄な時間を10分、15分と過ごすだけだと気がついたが。さらに雑技団ショー参加者をバスで会場まで送り届け、またバスで外灘に行くまでの時間約30分を無駄にしただけだと気づいたが、もう後の祭・・・。袁さんがバスに帰ってきたら文句をつけようと思っていたら、それより先にT氏が大爆発・・・。
(3) 袁さんが息せき切って帰ってきたのは7時35分。その袁さんの顔を見るなり大声で怒鳴りつけたのはT氏。その論旨は、①何にも説明しないまま我々をバスの中に放り出すとは何ゴトかということと、②2日目のホテルでの料金未精算問題で一言も謝らないのは何ゴトかということの2点。言い方は激しいが、その主張している内容はごく当然のことばかり。特に①については、まず私が文句をつけよう思っていたことだった。ここまで怒鳴られれば袁さんも反論することができず、とにかくバスを出発させることに・・・。
バス移動(雑技団会場から外灘見学へ)(7:35~7:45)
約5分間の大トラブル終了後、バスが外灘(バンド)に着いたのは7時40分。バスを降りて写真撮影の後、袁さんは現地まで私たちを案内し、何時まで見学しますかという質問。黄浦江から吹いてくる風がかなり強く、少し寒くなってきたこともあり、参加者は15分くらいでということになったため、8時5分まで一緒に行動して写真撮影などを・・・。
9 外灘、上海夜景見学(7:45~8:05)
(1) 写真が美しくコンパクトな概説がうまくまされている小学館の『週刊 中国悠遊紀行』全50冊は、私にとってすごく重要な情報源。そのNO4が上海だが、その18頁には「個性豊かな繁華街 名街」の紹介があったため、私はそのコピーを持参していた。
(2) 上海の租界が始まったのは、阿片戦争に破れた清国が1843年に南京条約を締結させられ、上海など5港の開港を迫られたためだ。イギリスによる上海租界が始まったのは1845年だが、続いて1848年にはアメリカが、1849年にはフランスが租界を設けることに。そして1863年には英米租界が合併して共同租界となり、一部には通称「日本租界」も設けられた。ちなみに、長州藩の勤王の志士である高杉晋作が上海を訪れたのは1862年で、ペリーが日本へ来航した9年後のことだ。
(3) このため大きく蛇行する黄浦江を挟んだ東側の新開発地域である浦東(プートン)地区には、高さ463mの東方明珠電視塔をはじめとして上海国際会議場、金茂大廈などの超近代的な高層ビルが立ち並んでいる(写真4-28、29)。
他方、西側には、上海摩天楼と呼ばれたイギリス領事館、匯豊銀行、東方匯理銀行などのおなじみの高層ビルが立ち並んでいる(写真4-30、31)。これぞ上海の夜景として世界中に知れ渡っている実にすばらしい景色が目の前いっぱいに広がっていた。
10 12名と別れて自由行動(8:05~10:15)
(1)南京東路を散策
外灘の見学を終えた後、その反対側にある市役所などを見学し、その後は南京東路の歩行街をブラブラと歩きながら、その巨大さを満喫(写真4-32)。この歩行街はもともと車の通る道路を1999年に歩行街に改めたとのこと。大阪の道頓堀通りを約5倍ほどに広げ、その中を小型の電気バスが走っているという雰囲気で、河南中路駅から人民公園駅まで1駅をブラブラと歩いて約15分というところ。外灘見学で風の冷たさを感じた私は、途中たくさんの店でバーゲンセールをやっていたため、1軒の店に立ち寄り、59元(約1200円)でちょっとカッコいい防寒コートを購入。なお、人民公園駅の公園はどんな大きさなのかと思って進んでいくと、これは意外に小さいものだったのでビックリ。それとは逆に、新しくできたデパートの巨大さは、とても日本では想像もできないほどのもの。
(2)地下鉄 人民公園駅にて次の方針決定
人民公園駅までたどり着いたところ(写真4-33、34)で、これからどこへ行こうかと迷ったが、1度上海の地下鉄に乗ってみたいと考えて、人民公園駅で地下鉄乗り場へ。地下鉄料金は3元。売店でビールを買い、地下鉄1号線に乗って南へ1駅黄陂南路駅へ。切符は日本と違ってすごく立派なものだったが、出口で回収される形式のもの。また夜の9時過ぎだが、階段を上り下りする乗客の足の速さは大阪と同じ・・・。私がここへ向かったのは、2001年にオープンした上海新天地の中にある中国共産党の「一大会址」を見てみようと思ったため。
(3)共産党趾の見学
黄陂南路駅に到着すると「一大会址」は2号出口と書いてあった。しかし、そこを出たものの、それらしきものは全く見えず、「一大会址」にたどり着くまでにかなりの苦労を。だって私の相棒の中国人留学生自身が、1921年に中国共産党の第1回党大会が開かれた会場がここにあるということ自体を知らないのだから、それもやむを得ないもの。ところどころに立っている「公安」に聞きながら、約10分歩いてやっとたどり着いたのが一大会址(写真4-35)。ここは2006年2月27日から3月24日まで工事中のため立入禁止となっていたのは残念(写真4-36)。しかしあと数日すればその工事が完了し、中国共産党の第1回大会の記念の資料が大々的に公開されるのでは・・・?
(4)足ツボマッサージは中止
共産党趾の近くには立派なレストランがたくさんあり、足ツボマッサージの店もあったので入ろうとしたが、料金は200元。日本の感覚で考えれば高いわけではないが、50元、60元で慣れた感覚ではべらぼうに高いため、ホテルにもあるだろうと考えて中止。
11 タクシーでホテルへ(上海逸和龍柏飯店)(10:15~10:30)
(1) ホテルへの帰路はタクシーだが、高速道路を走って約15分。日本なら1万円近くかかりそうだが、中国では基本料金が10元だから、かなりアップしても結果的には43元(約650円)とバカ安・・・。
(2) このホテルには立派なフィットネス施設があることが、タクシーの窓から見えた。そこで足ツボマッサージを楽しみに、このホテルで足ツボマッサージの値段を聞くと、何とここも280元とのこと。それを聞いてえらくケチになっている私はもういいワと中止。やはり上海の物価は異常であることをこんなところで実感!
(3) 「離団届け」を提出したため、袁さんにトランクをフロントに預けておいてくれるよう頼んでいたところ、そのトランクは無事に保管されていた。ところが、同時に依頼していたバスの中に手荷物として持ち込んでいたリュックがない。「こりゃまた何かの手違いだ、すぐに連絡しなければ・・・」と思っていると、ちょうどいいタイミングで袁さんと出会うことに。彼の説明は「・・・」だったが・・・。
12 就寝(11:30)
by sakawa-ryokou
| 2006-04-07 12:59
| 海外旅行(中国)